こんにちは。ヨシマサです。この記事では、道元が著した正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)の『全機』という話をわかりやすく解説してみたいと思います!

この記事を特におすすめしたい方:

  • 道元の思想、仏教の思想に興味がある方
  • 哲学的な考え方に触れるのが好きな方

正法眼蔵の『全機』とは?

ではまず、基本的なところから解説させてもらいましょう。

  • 正法眼蔵とは道元が約20年に渡って書いた書籍で、お釈迦様から伝えられた仏教の考え方、修行の仕方、作法などについて、87話に分けて書かれています。そのうちの1つが『全機』という話です。
  • 考え方、修行の仕方、作法と書きましたが、正法眼蔵は考え方について書いている話が多いです。今回紹介する『全機』も、考え方系です。

正法眼蔵についてもう少し詳しく紹介している記事もありますので、そちらも参考までにお読みいただければと思います。

どんなことが書かれている?

実は私、この『全機』が好きなんです。もし「正法眼蔵の好きな話ランキング」をつけたら(見る人少なそう笑)トップ3に入ると思います。ちなみに他に好きなのは『有時』『生死』『現成公案』『画餅』『谿声山色』などです。これらについても別の機会に書きたいと思います。

『全機』は、いうなれば「人が生きるとか死ぬという現象っていうのは、つまりこういうことなんですよ」ということが書かれている話です。死について考えるのは、少し哲学的なことだと思います。(死んだあとは自分ってどうなる?消えてなくなる?生まれ変わる?死後の世界ってあるのか?などなど・・・)

この問題には答えがないと思ってます。なぜなら、この問題について話している人の中に、死んだ経験がある人が誰一人としていないので、誰もこれが答えだ!と言い切れないからです。死んだ経験のある人は、もう死んでるのでその経験を話せないですもんね。そんな中で、道元は生きているうちにこの問題について悟り、その考えを述べました。それがこの『全機』の中にも書かれているというわけなんです。

具体的に何が書かれている?

今回も増谷文雄先生の『正法眼蔵(四)』から、2つ引用したいと思います。

—–引用1—–
生というものは、来るにもあらず、去るにもあらず、あるいは、現ずるでもなく、成るものでもない。ただ、生とはそのからくりの実現するすべてをいうのであり、死もまたそのからくりの実現するすべてに他ならない。
—–増谷文雄『正法眼蔵(四)』—–

どういう意味かというと、私の解釈では、生というのは、生きている間のことだけを言うわけではないということです。道元はこう言っているのだと思います。「来る、去る、現ずる、成る。もしこれらを生というのであれば、来ている間、去るまでの間、現ずる間、成っている間だけが生だということになるが、そういうことではない。生きている間だけを生というのではなく、死も含めて(ひっくるめて)生というのだ。死という存在があるからこそ、生という存在があるのだから。

もっと端的に言おうとすると、次のようになるでしょうか。

  • 死という存在がなければ、生は存在しない。逆もしかり。どちらかがなければ、両方とも存在しないことになる。
  • つまり、生と死が合わさって、全体として1つの機関として成立しているのだ。

ここで機関という単語を使用しましたが、機関とは、機関車の機関です。どれか一つでも部品が欠けてしまえば、機関として成立せず、機関車は動きません。死があるからこそ生がある。すなわち生のために、死は欠かせない存在だということですね。なお、増谷先生がからくりと訳されている部分は、道元の原文では機関となってます。増谷先生は本の中の解説部分で、この機関の訳しかたに悩んだ結果、古註を参考にしてからくりにしたと書かれています。

もう1つ引用させていただきます。次は私が『全機』の中で一番面白いと思う部分です。

—–引用2(※太字下線は筆者)—–
生とは、たとうれば、人が舟に乗った時のようなものである。その舟は、われが帆をあやつり、われが梶をとる、あるいは、われが棹をさすのであるが、それにもかかわらず、やっぱり、舟がわれを乗せているのであり、舟のほかにわれがあるわけではない。つまり、われが舟に乗って、舟を舟たらしめているのである。(—中略—)それと同じように、この生はわれが生きているものであるとともに、またこの生がわれをわれならしめているのである。(—中略—)この生なるわれ、われというこの生は、そのようなものなのである。
—–増谷文雄『正法眼蔵(四)』—–

これは本当にすごい文章だと思います。道元の世界観、仏教の世界観が凝縮されているように思います。この文章も、引用1と同じことを意味しています。

  • われがいなければ、舟は舟でなくなる。(人を運ぶという舟の役割を果たさないので。
  • 舟がなければ、われは存在しない。(水の上で存在できないので。
  • つまり、どちらか一方でもなくなれば、両方とも存在しないことになる。
  • 生とわれもこれと同じである。生があるからわれがいて、われがいるから生があるのである。

といったところでしょうか。

『全機』に書かれていること-まとめ

まとめると次のようになります。

  • 死という存在がなければ、生も存在しない。
  • 生という存在がなければ、われも存在しない。
  • その逆順もしかり。われがなければ生もなく、生がなければ死もない。
  • つまり、われ⇔生⇔死は、全体として1つの機関であり、どれか1つでも欠けることはありえない。というより、欠けるようなものではない。

以前の記事で、道元が『正法眼蔵』で伝えたいことは大きく分けて5つあるとお伝えしました。

①「死」は怖いものではない
②「苦」は苦しいものではない
③「固定観念」は取り払うことが大切である
④「執着」から離れることが大切である
⑤「差別」することに意味はない

今回の『全機』は、このうちの①を伝えるために道元は書いたのだと私は理解しています。死がなければ、生もなく、われもない。ということは死は嫌われるようなものではない。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」ならぬ、「われに死あり、ゆえにわれあり」というところでしょうか。道元にとっては生と死はとても重要な関連を持っていて、生と同じくらい死も重要なものであるといった認識なんですね。また、その死の存在を、なんというかネガティブではない心境で常時自然に受け入れていたんですね。こういった生と死に対する認識については、『生死』という話にも書かれているので、こちらもまた紹介したいと思います。

やっぱり正法眼蔵は哲学的だなと思います。これを読んで道元、正法眼蔵に興味を持つ方がいてくれると嬉しいです。

最後に、引用2の「舟とわれ」の話は、別途紹介する『有時』や『現成公案』という話と合わせて読むとまた面白い解釈が生まれてくる部分でもあります。また、引用1には現ずる成るという単語が出てきましたが、これは現成公案に含まれる文字です。正法眼蔵は他の話を読み進めると関連が見えてきて、道元思想の理解が進んでくる読み物になっています。

今回の参考文献

増谷文雄先生『正法眼蔵(四)』

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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