こんにちは、ヨシマサです。

この記事では、曹洞宗の開祖 道元が『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の中で、「足るを知る」の考え方についてどう書いているかを、わかりやすく解説してみたいと思います!

この記事を特におすすめしたい方:
・現状に不満で、心が穏やかでない状態になっている方
・坐禅(座禅)やマインドフルネスに興味がある方

「足るを知る」とは?

まず「足るを知る」の意味については、この言葉だけでもなんとなくわかる気がします。

「足りない点ばかりを気にするのではなく、現状を改めて見てみましょう、現状だけでも十分幸せな状態ですよ」

という考え方とでも言いましょうか。いろいろ悩んで煮詰まったときに思い出すと、ふっと心が軽くなりそうな良い言葉ですよね。

実はこの考え方、道元が800年も前に『正法眼蔵』の中に書いてたんです。これ、本当にすごいことだと思います。時代が変わっても生き続ける普遍的な考え方ってあるんですね。もっと言うと、これは2000年も前にお釈迦様(釈迦牟尼仏)が述べたことだそうです。道元は『正法眼蔵』の中で、お釈迦様が述べたことを紹介する形で、この「足るを知る」について書いているんです。

道元は「足るを知る」を『正法眼蔵』のどこに書いた?

道元は『正法眼蔵』の『八大人覚』という話の中で、「足るを知る」について書いています。八大人覚とは「お釈迦様の8つの教え」という意味です。その8つのうちの1つが、「知足」つまり足るを知るです。ちなみに、8つのうちの もう1つに「少欲」というのもあります。1つ目に少欲、2つ目に知足という順番で書いてます。

どのように書かれている?

私が愛読している増谷文雄先生の『正法眼蔵(七)』から、抜粋して引用させていただきます。1つ目が少欲、2つ目が知足についてです。

—-引用(※太字下線は筆者)—-

『仏は仰せられた。「なんじら比丘は、まさに知るがよい。多欲の人は、利を求めることが多いゆえに、苦悩もまたおのずから多い。それに反して、少欲の人は、求めることがなく、欲がないから、おのずからその患えがない。されば、ただ少欲ということだけでも習い修むるに足るのであるが、ましていわんや、少欲はまたよくもろもろの功徳を生ずるにおいておやである。たとえば、少欲の人は、またおのずからにして、人にこび諂ってその意をむかえようとすることがなく、また、いろいろの対象にその心を奪われることもない。あるいはまた、よく少欲を行ずる者は、心おのずからに平らかにして、憂え恐るるところがなく、事に触れていつも余裕があり、けっして足らざることがない。詮ずるところ、少欲をうちに蔵すれば、おのずからにして平和な心境がある。これを名づけて少欲というのである。」』

—-増谷文雄 『正法眼蔵(七)』—-

—-引用(※太字下線は筆者)—-

『仏は仰せられた。「なんじら比丘は、まさに知るがよい。もしもろもろの苦悩を脱しようと思うならば、まさに知足を観ずるがよろしい。けだし、知足ということは、まさしく楽しみゆたかにして心やすらけきところなのである。すなわち、足るを知れる人は、たとい地上に臥すといえども、なお安楽である。それに反して、足るを知らざる者は、たとい天界の殿堂にありといえども、なお心満つることをえないであろう。(‐‐‐中略‐‐‐)足るを知らざる者は、いつもさまざまの欲望のために振りまわされていて、ひそかに知足の者のために憐憫せられるのである。これを名付けて知足というのである。」』

—–増谷文雄 『正法眼蔵(七)』—–

2つとも似たようなことが書かれてるので、私はこの2つをセットでとらえています。太字下線の部分あたりが、面白い表現だなと思います。「天界の殿堂」って(笑)。

また、特筆すべきこととしては、どちらも「無欲」のような考え方ではない(欲が「全く」ないのを美徳とするような考えではない)点です。

欲が「全く」ない状態で生きていくのは非現実的ですし、しんどくなってしまいますよね。そのあたりも考慮されたうえで、「少欲」「知足」という表現になっていると思われます。

道元が伝えたいこと

以前の記事(正法眼蔵とは?簡単に解説!)で、道元が『正法眼蔵』で伝えたいことは大きく分けて5つあるとお伝えしました。

①「死」は怖いものではない
②「苦」は苦しいものではない
③「固定観念」は取り払うことが大切である
④「執着」から離れることが大切である
⑤「差別」することに意味はない

今回の「少欲」「知足」については、このうちの④を伝えるために道元は書いたのだ、と私は理解しています。

自分の現状に満足いかず不満なときは、どうしてもそれが頭から離れない状態(執着した状態)になってしまいます。そんなときに、「今で十分じゃないか」と思い直すことができれば、執着から離れることができると思います。

さらに言えば、そう思い直すための具体的な方法として、坐禅やマインドフルネスが活用されるのだと思います。静かな部屋でじっくり坐禅をすると、「今ここ」「今のこの身体」のみに集中することができ、「それがあれば十分じゃないか」と思えるきっかけになります。

坐禅についても、また書きたいと思っています。

今回の参考文献

増谷文雄先生『正法眼蔵(七)』

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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